甲子園の魅力を再発見! 阪神甲子園駅からつながる町の歴史と今 | 全国の不動産投資・収益物件|株式会社リタ不動産

甲子園の魅力を再発見! 阪神甲子園駅からつながる町の歴史と今

2025-06-04

甲子園球場は、ただの野球場ではありません。この場所があることで、周辺地域がどのように発展してきたのか、そして今もなお多くの人々を惹きつけている理由は何なのでしょうか? 阪神甲子園駅や阪神パーク、さらには路面電車の歴史と存在が、地域の文化や経済にどのような影響を与えているのかを探っていきましょう。

甲子園球場100年の歴史

甲子園球場の歴史は1922年6月28日、阪神電鉄が兵庫県庁で枝川と猿川の跡地購入にサインをしたことから始まります。枝川と猿川は現在の甲子園筋を流れていた河川です。その川の跡地を利用した甲子園の街づくりの第1号の施設として2年後の1924年に甲子園球場が完成するのです。大阪朝日新聞(現在の朝日新聞社)主催の全国中等学校優勝野球大会(現在の全国高等学校野球選手権大会)の開催を目的として、兵庫県武庫郡鳴尾村(現在の西宮市)に開場しました。日本初の本格的な野球場です。1892〜1910年の古地図では、甲子園球場はまだありません。枝川と分岐した猿川が流れていることが確認できます。

※この地図は、時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」((C)谷 謙二)により作成したものです。「時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」使用上の注意・ネット上での使用について」の記述に則って掲載しています。

1924年の甲子園球場のオープン当初、スタンド席は1塁側・3塁側の内野部分が50段の鉄筋コンクリートで作られ、外野部分は川の堤防のような芝生の法面でした。オープンから5年後の1929年、内野と外野の間が改造され、50段のスタンド席が山のようにそびえ立ちました。それを見た朝日新聞の記者が、「アルプススタンド」と記事に書きました。外野から見える屋根のないスタンドがアルプス山脈のような高い山に、観客の白シャツが万年雪に見えたからです。

その後も甲子園球場では100年にわたって数々の名勝負が繰り広げられてきました。この球場の建設は、当時の地域発展に大きく寄与し、特に「甲子園」といえば阪神タイガースの本拠地と高校野球の聖地として全国的に知られるようになりました。開場当初からプロ野球チーム・阪神タイガースの本拠地となり、日本のプロ野球の発展に大きく貢献しました。「夏の甲子園」として知られる全国高等学校野球選手権大会は、甲子園球場を舞台に数々のドラマを生み出し、日本中の人々に感動を与えてきました。こうした大会や試合が続いた結果、球場周辺には飲食店や宿泊施設が次々と開業し、地域経済が活性化しました。

甲子園球場の開場とともに、地域の人々もまた、球場を中心に生活を築いてきました。地元住民の多くは、家族や友人とともに甲子園での試合を観戦することが日常の楽しみとなり、地域のコミュニティが形成されました。また、甲子園球場はプロ野球だけでなく、高校野球の聖地でもあり、全国から多くの観客が訪れることで、町の魅力はさらに高まりました。

甲子園球場の誕生と発展に伴って、交通インフラやアミューズメント施設も充実していきました。詳しく見ていきましょう。

阪神甲子園駅と路面電車

阪神甲子園駅は、1924年の8月1日つまり甲子園球場がオープンしたタイミングと同時に開業しました。駅の南口を降りると甲子園はすぐ目の前というロケーションです。
駅の開業に伴い、沿線地域の人口は急速に増加し、大正時代にはこの沿線の人口が2倍になりました。人口増加に伴い、電車の利用者数も増え、乗客数は4倍に達したとされています。
さらに甲子園駅のホームの下をくぐって南北に走る道路が「甲子園筋」という道で、これがもともとは枝川だったわけです。この「甲子園筋」も、球場へのアクセスを向上させ、地域の発展に大きく寄与しました。

※阪神甲子園駅のホームの下をくぐって南北に走る甲子園筋、もともとの枝川を埋め立てた

さらに2年後の1926年から、今度は甲子園の町のインフラとして鉄道建設が行われました。それが阪神電車甲子園線の路面電車です。1926年に甲子園から海水浴場のあった浜甲子園までが開通し、2年後の1928年には国道線が開通し、上甲子園まで延長されます。そして1930年には浜甲子園から先の海岸沿いまでさらに延長されました。1927〜1935年の古地図を見てみると、すでに野球場が存在しており、現在の甲子園筋を線路の表示が走っています。

※この地図は、時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」((C)谷 謙二)により作成したものです。「時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」使用上の注意・ネット上での使用について」の記述に則って掲載しています。

路面電車と阪神パーク

1929年、現在の鳴尾浜公園の海側に開園した「阪神パーク」直通鉄道として、浜甲子園から先の海岸沿いまで路面電車が延長されました。
阪神パークは、当時としては最新の遊具と動物園・水族館を組み合わせた一大アミューズメントパークでした。特に併設された水族館では、日本で初めてクジラを飼育したことが話題を呼び、いまでもクジラ飼育に至るまでのエピソードが残っています。

1936年、和歌山県の太地町からひとりの男が阪神電車の事務所を訪れ、ゴンドウクジラという小型のクジラを数匹生け捕りにしたと報告します。阪神パークの水族館では、このクジラを展示することに決定しましたが、最大の課題は輸送方法でした。当時、ほかの水族館ではカゴなどに入れて船でクジラを引っ張りながら運んでいましたが、輸送中にクジラが暴れて死んでしまうことが多かったのです。

そこで水族館の担当者である堀家邦男は、「クジラは哺乳類だから、甲板に引き上げて布団で包み、水をかけて輸送すれば良いのではないか」と考え、実際にその方法でクジラの輸送に成功しました。クジラは無事に甲子園浜へ到着し、水族館で日本初のクジラの飼育が実現しました。この展示は大きな話題を呼び、阪神パークは瞬く間に人気のスポットとなりました。

しかし太平洋戦争により1943年、隣の鳴尾競馬場とともに海軍基地として接収され、飛行場となりました。跡地となった鳴尾浜には、今でも阪神パークの遺構が残っています。

戦争が終わり1950年には、阪神パークは甲子園球場の隣に再建されました。ヒョウとライオンを異種交配した「レオポン」と呼ばれる動物が話題を呼びました。
また、戦後も路面電車は上甲子園から浜甲子園までの約2.8km区間で営業が続けられていましたが、高度成長期のモータリゼーションに伴い、マイカーの増加が進んだ結果、交通の妨げとなり、1975年に廃止されました。
1983〜1988年の地図では、路面電車は姿を消し、現在の「ららぽーと甲子園」の場所には「阪神パーク」が存在していたことが確認できます。

※この地図は、時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」((C)谷 謙二)により作成したものです。「時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」使用上の注意・ネット上での使用について」の記述に則って掲載しています。

その後、大阪にオープンしたユニバーサル・スタジオ・ジャパン(USJ)などの影響もあり入場者が減少した阪神パークは2003年に閉園、「ららぽーと甲子園」として生まれ変わりました。

今も残る旧甲子園ホテル

旧甲子園ホテル(現武庫川女子大学 甲子園会館)は、1930年に関西屈指のリゾートホテルとして西宮市の武庫川沿いに開業しました。設計はフランク・ロイド・ライトの弟子、遠藤新です。旧甲子園ホテルは阪神電車の甲子園周辺のリゾート計画の中で建設が決まったため、本来は海岸沿いに建てられるべきところ、阪神関係者が武庫川河畔の松林と大きな池に惚れ込み場所が変更されました。
当時は「東の帝国ホテル、西の甲子園ホテル」と称され、豪華絢爛なリゾートホテルとして知られていました。客室は全部で70室、東京の帝国ホテルの270室に比べると規模は小さいですが、クオリティはもちろん宿泊や食事の値段は帝国ホテルに匹敵するほどでした。

自然光を最大限に取り入れる開放的な空間が特徴で、室内には格子のデザインや自然素材が用いられ、日本の伝統的な美意識が表現されています。2006年からは武庫川女子大学の建築学科のキャンパスとしても利用され、建物は建築を学ぶ学生たちの良いお手本となっています。

甲子園球場を中心に発展した街

1988年の朝ドラ『純ちゃんの応援歌』は、野球を愛するヒロインが高校球児のために甲子園球場近くで旅館をオープンするストーリーでした。現在も甲子園球場周辺には、高校球児を迎える旅館や、一般観光客向けのホテルが数多く営業しています。

試合の日には多くのファンで賑わい、球場へのアクセスが便利なことから、観光客にも人気のスポットとなっています。駅の近くには、飲食店やカフェも多く、観戦前後に立ち寄るスポットとしても魅力的です。

また阪神甲子園駅周辺では、球場の集客力を背景に様々なビジネスが展開されています。特に、試合の日には多くの人が訪れるため、飲食店や物販店が繁盛しています。また、地域のイベントや祭りが行われる際には、駅が中心となって人々が集まり、地域の賑わいを創出しています。

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ページ作成日2025-06-04

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